魂は「タマ」と「シイ」からできている!?
『人の魂(タマシヰ)は、「タマ」と「シヰ」と「タマノヲ」から成り立っている』
というのが、縄文人の考え方です。これは、古事記、日本書紀の原書とされる『ホツマツタヱ』に書かれていることです。
「タマ」は漢字で書けば「霊」。御霊(みたま)や言霊(ことだま)のように使います。
「シヰ」は「欲しい」の「しい」で、食欲や性欲などの肉体的な欲求のことです。
「タマ」は大宇宙の中心(アモト)から降ってきて、「タマノヲ」によって「シヰ」と結びついて人になります。人が亡くなれば、「タマノヲ」を解いて、「タマ」は大宇宙の中心(アモト)に帰り、「シヰ」は地球に戻ります。
何となく、イメージできたでしょうか?
「タマ」が大宇宙の中心(アモト)と地球を行き来する、現代の概念でいう「輪廻転生(りんねてんしょう)」や、純粋な「タマ」が「シヰ」の欲求の影響を受けることなど、このような考え方が、少なくとも3,000年以上前にあったのです。
現代でも、肉体的な欲求に支配される体主霊従ではなく、心に従って生きる霊主体従であるべきといわれます。欲求には、本能的な食欲・性欲・睡眠欲の三大欲求に加えて、名誉欲や物欲、支配欲なども含まれますので、優越感を求める人や損得勘定で生きている人は体主霊従の人といえるでしょう。
欲求が強すぎる体主霊従の人は、「シヰ」に支配されて、「タマ」が本来の生き方をできない状態にあります。神社参拝をよくされる方にはおなじみの話ですが、神社は生まれ直しの場所でもあります。神社のお宮とは子宮のことであり、参道は産道のこと、鳥居は女性の股を象徴しています。神社に参拝することで、母の子宮に戻って、「シヰ」に支配されていることに氣付き、「タマ」本来の生き方を思い出すのです。
「シヰ」に支配されることを「氣枯れ(けがれ)」と言い換えれば、分かりやすいでしょうか。氣枯れを祓って、清浄な「タマ(霊)」となるのです。もちろん、欲求である「シヰ」は誰もが持っています。「シヰ」に支配されて生きることが問題なのです。「タマ」本来の生き方ができなければ、使命に氣付くことも、使命を果たすこともできません。
縄文時代は平和な社会が1万年以上続いたといわれますが、それは自然豊かで、食料を奪い合う必要がなかったからという単純な理由ではありません。縄文人は野蛮で知性が低かったと考えている方も多いかもしれませんが、現代のように科学に偏重した考え方ではなく、縄文人にはしっかりとした哲学があり、自然を支配するのではなく、自然とともに生きる「共生」を実現していたのです。私たちは遺跡や土器から想像する縄文の生活ぶりから何かを学ぼうとするのではなく、縄文人の哲学を学ばなければならないのです。
いつもありがとうございます。
ホツマまなびや白鳥校 教人(おしえと)
市口 哲也
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